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2008年3月

裏から考える

昨日の記事では、「書かれていないこと」を考える、という話を書きました。

ミステリーを読む際の常道として、ある現象を観察するときは、

「本来あるべきものがない」「偶然起きたことがもし起きていなかったら」

と考えるべき、というルールがあります。例えば、ビジネスマンのスーツのポケットに、

ライター、たばこ、PDA、手帳(メモ欄に「トイレ」と書いてある)があった、

という情報から考えるべきことは、「本来あるべき携帯電話がない」ということであり、

そこからある仮説が導かれ、「トイレ」というメモ書きはその仮説を支持します。

さて、「裏から考える」典型例は、算数の図形問題です。特に、角度問題は、

発想を柔らかくする訓練として最適です。高校入試でも出されるようですが、

実は中学入試の方が難しかったりします。変な話ですが、入門編としては

高校入試の教材からスタートするべきです。

たとえば、「外角定理」というものがあります。言葉で説明すると、

三角形の2つの角の角度を足すと、残り1つの角の辺を

三角形の外へ伸ばした、外側の角度になる、といった定理です。

外角定理を使うと、の5つの頂点の角度の総和を簡単に導くこと

ができます(補助線を引きます)。星形がゆがんでいても同じです。

外角定理、はまさに「外側」を考えているわけで、裏から考える発想法です。

他にも、平行線や二等辺三角形を使った角度の一致、

円周角と中心角の関係などなど、図を見ているだけでも頭が刺激されます。

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反対意見と法律

人から聞いた話なので、本当かどうか分かりませんが、

イスラエルでは、提出された法案について国会内で誰も反対者がいないと、

その法案は自動的に廃案になる、とのことです。

法律を少しでも勉強した人であれば、非常に納得のいく話です。

「法は、利害が対立しているところを調整する」からです。

例えて言えば、法律は信号機です。道が交差していて、かつ、

放っておくと自動車が衝突してしまう程、交通量が多い場所だからこそ、

信号機は置かれるのであって、反対意見がない法案、というのは

一本道の途中にいきなり信号機を立てるようなものです。

誰しもが自然と守る、当たり前のことは法律・ルールにする必要がない、

という発想は日本史を考える上でも大事です。

井沢元彦さんは、歴史学者がよく陥るミスである「史料絶対主義」の弱点として、

常識・当然のことは史料には書かれていない、という点を指摘しています。

たとえば、井沢氏が例に出す「中日ドラゴンズの理論」は好例です。

ドラゴンズ50年史という史料で、「ドラゴンズ」という名前の由来について、

「中部日本新聞社社長杉山虎之助の干支が『辰年』であるところから、

それにちなんでニックネームが『ドラゴンズ』と決まった」と書かれています。

我々はこれを読んでも、あまり違和感は感じませんが、

それは、野球チームのニックネームには、強い動物の名前を付けることが多い、

という「常識」があるからです。もし、この「常識」がないと、

社長の干支がネズミなら「マウス」で、ウサギなら「ラビット」と付けたはず、

といった変な話になってしまいます。史料絶対主義は、

「史料に書かれることの少ない常識」を見逃してしまうせいで、

因果を極度に単純化してしまう、という問題点があるのです。

物事には色々な原因があるはずなのに、複合的な要因が分からなくなってしまいます。

どんな資料でも、「書かれていないこと」を考える癖が大事です。

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国民総幸福

ブータンで先日(24日)、総選挙が行われました。

ブータンは王政であったのですが、ワンチュク元国王が10年以上も前から、

世襲の国王1人に任せるべきではない、と自ら主張して、

立憲君主制への移行を準備して、今回、二大政党による総選挙となりました。

ただ、国民は「前国王が望むなら」という姿勢がほとんどで、

政党の政策は、いずれの党も国王の政策の承継であって、

互いを批判せずに、賞賛し合う、という珍しい選挙戦を繰り広げていたそうです。

このワンチュク元国王は、1972年に16歳の若さで即位し、

その4年後、国際会議に出席した際に、「GNP(国民総生産)よりも、

Happiness、すなわち、国民総幸福(GNH)が大事である」と演説したことで有名です。

当初はスローガン的なものでしたが、現在では、国立の研究センターで

GNHの数値化が試みられている、とのことです。

Happinessは、心の持ちようであり、「目に見えないもの」です。

私の好きな言葉に、「見たものしか信じない、なんてまったく逆だ。

見たものにも嘘はあるし、見えないものにも真実はある。」という言葉があります。

学生に法律を教えるとき、「権利」「義務」という概念を納得してもらうことが

なかなか難しいのですが、私は以下のように説明します。

「権利」や「義務」は目に見えないもので、皆さんの心の中にあります。

「こうしたい」「ああしたい」という気持ちだと思ってください。

例えば、結婚をした男女は、何か目に見える変化があるわけではないのです。

でも、きっと、心の中では、何か変化が起きていて、それを「権利」「義務」と

呼ぶことができるのです。「権利なきところ、幸福もなし」と言えます。

GNHの概念を唱えた国王が、国民の選挙権を保障した、というエピソードは

まさに、この考え方を実証している、と言えるでしょう。

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職業欄と「所属」

よくアンケートで「職業欄」がありますが、選択式で

農家とか大工とか商人とか、は見ないものです。

多いのは、公務員、会社員、教員、医師、弁護士、とかです。

本来なら、会社員の中で、営業職か、財務か、開発か、人事か、

といった「職種」が職業であるべきです。しかし、実際には、

会社員か公務員か、という「所属」だけが問題とされています。

働く人の多くが会社や役所などの組織の一員となっている現代では、

組織内での人事異動もあり得るし、そもそも転職も多いので、

職種を訊く意味が乏しい、ということでしょう。

ただ、「所属」しているはずの会社とは一体何か、ということになると

よく分からない、という方がほとんどだと思います。

一時、村上ファンドが栄えていた頃、「会社は誰のものか」という議論が

ありましたが、答えは簡単には出ません。簡単に出ない理由は、

組織、特に会社が本来的に矛盾を内に抱えた存在であるからです。

なぜ組織が必要なのか。シンプルな回答は、分業をするため、です。

以前、「およげ!たいやきくん」について書いたときに、

「社会」の意味を述べましたが、多くの人が集まって分業することで、

少ない労働時間でより大きい成果を得ることができます。

「分業」を行う最低条件は、仕事を定型的かつ継続的に集めることです。

計画を立てて指示を出す、というマネジメント(管理)は、

分業を「効率よく」行うためには必要ですが、プラスαの要件です。

ここからが矛盾の始まりです。

定型的・継続的に仕事をしている内に、市場環境が変わってしまいます。

市場の変化に対応しなければ、会社は潰れてしまいます。

しかし、定型的・継続的な仕事にとって最適化された組織である以上、

変化に応じた新商品を量産する方向への転換はなかなか困難です。

天才的な技術者による発明や発見で「開発」はできたとしても、

それを大量生産し、流通させ、販売して、お金を稼ぐためには「分業」が必要です。

定型的・継続的でないと組織を作る意味がないのに、

一定期間やっていると、そのビジネスは陳腐化してしまい、

従前の分業体制を根本から変えざるを得ない状況に追い込まれるのです。

時代の変化によって業態を変えたり、社内で人事異動があったり、

会社が早期退職を募集して社員の入れ替えを推進したりする理由は

ここにあります。郵便局員が職業欄で、公務員とするか、会社員とするか、

迷ってしまった、という話からヒントを得て書いてみました。

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国を支えて国を頼らず

3月22日号の「東洋経済」にて、シャープの社長である辻晴雄氏による

連載記事があります。1978年に同氏がテレビ事業部に異動したときの

経験が書いてありました。異動の内示を受けたとき、「これは大変」と感じたそうです。

その前年、日米両政府がテレビ輸出を4割削減することを合意していたせいです。

当時のテレビ輸出のほとんどはアメリカ向けであったので、この規制は

日本メーカーにとって死活問題であったが、何とか乗り切った、という話です。

アメリカへ輸出できない以上、国内販売を増やすしかないわけで、

辻氏は、工場へ入った直後、「試作品を秋葉原へ持ち込んで、

どうやったら売れるかを店員と相談してみろ」と指示したのですが、

工場現場の社員の多くは、「新製品の情報が外に漏れてしまう」とか、

「店員はそんなに目利きではない」とか反対をしたそうです。

とはいえ、輸出はできない以上、今までのやり方を続けることは不可能です。

とにかくやってみよう、と説得し、試作品を秋葉原へ持ち込ませて、

工場の技術者と店員が「どんな商品が売れるか」を議論する中で、

着脱式のリモコン、という新発想が生まれ、

コストも大幅にカットしないとダメだ、と実感できたそうです。

最近、「官製不況」という言葉があります。国の規制や方針転換によって

商売の根本条件が変わってしまうことに伴う不況を指します。

しかし、昔から、国の政策が変わることは何度もあったはずで、

その度、新しい条件下で生き抜くため、工夫をしてきたのが民間企業です。

国に頼るどころか、邪魔をされても、儲けを出して税金を払ってきたのです。

ただ、現代のグローバル化の中では、「国の政策・方針の変化」は

誰を採用するか、どんな機械を購入するか、とほぼ同程度の変数にすぎず、

日本の規制下では商売を続けることが困難であれば、

海外へ行って商売します、という企業が増えています。

「国を支えて国を頼らず」という言葉は福沢諭吉によるものですが、

「国を離れて国を頼らず」が今の多国籍企業の現状です。

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コメダ珈琲店

出張で名古屋へ行ってきました。

名古屋一帯で集中的にフランチャイズ展開している

「コメダ珈琲店」を初体験しました。名古屋人にとっては、

喫茶店といえば「コメダ珈琲店」、という位にポピュラーだそうです。

愛知県だけで300店舗近くあるので、東京のスタバに近い頻度で

目にすることになります。コンビニ業界ではam/pmがドミナント的な

店舗展開(2、3分歩くと別の店舗にぶつかる)を行っていますが、

喫茶店で地域に集中して出店しているのは珍しいと思います。

もちろん、スタバは繁華街・ビジネス街に集中的に展開していますが、

スタバが一部のソファ席を除き、短時間のスティ又持ち帰り

を推奨しているのに対し、「コメダ」は380円の珈琲一杯でも

ゆったりと過ごしてもらうことを前提としています。

店内イメージとしては「ログハウス調にしたルノアール」という感じです。

お昼を過ぎてしまっていたので、名古屋名物の豪華な「モーニングサービス」

を食べることはできませんでしたが、デザートが充実していて、

そちらで儲けているのだろう、と思われるメニュー構成でした。

スタバや最近のマックのように持ち歩くコーヒーというのも良いですが、

やっぱり、店内でゆったりと過ごす喫茶店も生き残って欲しいと思うので、

ドミナント的にフランチャイズ展開するビジネスモデルには注目です。

昔ながらの喫茶店をそのままの形で残すことは難しくても、少し形を変えて、

残していく手法の1つだと思います。

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かたはらいたし

日常用語では使わないと思いますが、

漢字としては「片腹痛し」と書くようで、

相手が話していることが、身の程知らずで笑止千万、

といった意味です。

ただ、もともとは「傍ら(かたわら)痛し」という漢字で、

相手の様子を傍で見ていて可哀想だ、というところから「気の毒」

逆に、自分が傍らの相手から見られるのが苦痛、というところから「恥ずかしい」

の2つの意味だったそうです。

一昨日、語源の話を書きましたが、漢字の誤用から意味が変わっていく、

というパターンは欧米ではない語源だと思います。

あと、昔の日本人は、「自分がどう見るか」を考えると同時に

「相手から自分がどう見られるか」を考える、

という客観性を持ち合わせていたことにも少し感動です。

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異なるものを受け入れる

ご存知のように、真珠は他の宝石とは異なり、

アコヤガイという貝の中で作られます。

先日、結婚式に出た際に、牧師が誓約する新郎・新婦に対して、

生まれも育った環境も違う2人が一緒に暮らしていくのは大変なことで、

2人で共通する部分よりも、違う部分の方が圧倒的に多くて、

違う部分を責めていけば際限なくて、でも、結婚するのは、

ちょうど、アコヤガイが自分の体の中に、変なものを入れられて、

それをはき出すことなく、自分の中に取り込んで、

大切に守っていくことで、最終的には綺麗な真珠が出来上がる、

といった話をしていました。こういう考えはキリスト教の中にあるのだろうか、

と疑問は感じましたが、良い話なので紹介します。

一神教の考えではなく、八百万の神の考えに近いとは思いますが。

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語源

恥ずかしながら最近知りましたが、「ピアノ」の正式名は

「ピアノフォルテ」ないし「フォルテピアノ」と呼ぶようで、

強い音も弱い音も自由に出せることから、演奏記号の

フォルテ(力強く)と、ピアノ(弱く)を組み合わせた名称が付けられた、

とのことです。

もう1つ。「シーソー」は何となく日本語のようにも思えますが、

本当は「Seesaw」。語源について、シーソーに乗っていると、

遠くの風景が「見える」、「見えた」という状態を繰り返すから、

というseeの過去形を覚えるためには絶好の説もあるのですが、

実際には、大きな丸太を2人でのこぎりを使って切っていく、

木挽き(こびき)の仕事歌から来ているとする説が通説です。

sawは「のこぎり」の意味、

seeには「見る」から派生して「反復する」という意味もあり、

仕事歌の冒頭が「see, saw」となっていたところ、

2人の木挽きの動きがちょうど、シーソーに乗っている2人と似ている、

ということが本当の語源のようです。

ピアノとシーソー、2つの語源を見てきましたが、

語源を知ろうとすると、多くの場合、1つの言葉がいくつかの部品に分かれ、

部品の意味が分かると、部品の組み合わせで別の言葉が生まれる、

という言葉の広がりが見えてきます。

特に、日本人は漢字を組み合わせて言葉を作っていくことになれているので、

語源を知ると、英単語の暗記が一気に進みます。

「uni」はラテン語の「1つ」という意味の言葉から来ていて、

uniqueは「独特の」、unifyは「統一する」、という意味があります。

また、universeは、「verse」がラテン語の「廻る」という意味の言葉から来ていて、

1つの軸を中心として廻るもの→万物→世界→宇宙、といった連想で

意味が広がっています。

私が中学時代、英単語を覚えたときには、語源を厚めに説明している辞書を

使いましたが、今はホームページで語源を説明しているページが複数あります。

例えば、「英単語を語源で覚えよう」http://www.road52.com/ はお薦めです。

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AIESEC DANCE

昨日、学生時代に入っていたアイセック(AIESEC)の

国際セミナーへ行ってきました。アイセックでは、

各国がRoll Callと呼ばれるダンスを持っていて、久しぶりに見てきました。

Googleで「AIESEC DANCE」と検索すると、

You Tubeで色々な国のダンスを見ることができます。

一応、統一的なAIESEC DANCEなるものがあるようですが、

これは、AIESEC Internationalという機関で働いているスタッフが

国際セミナーの度に、世界中でダンスを指導しているようです。

イエズス会が宣教師を世界中に送り込み布教したのと同じです。

今回感じたのは、インド系の人々のプレゼンスが高まっている、という点です。

セミナーも5日目で、普通の参加者(デリゲート)が疲労困憊なのに、

バングラディシュのデリゲートは途中参加で、かなり元気だった、

という特殊事情もありますが、AIESEC DANCEも何となくインド系ですし、

スペイン→イギリス→アメリカ、の次はインドかもしれませんね。

海を活かした発展ができるのは、中国よりもインドであるように思います。

国を根本から変えるためには「海から世界を見る」ことが大事、

というのは「沈黙の艦隊」からの受け売りですが、海から見ると、

インドの地政学的位置はまさに世界の中心であると言えます。

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作中作、劇中劇

ミステリーの技巧の1つに、作中作を盛り込む、という手法があります。

例えば、推理小説作家が殺人の被害者となって、その遺作が発見された、

という設定で、遺作の方も紹介されつつ、遺作の登場人物の設定と、

現実(といっても、小説内ですが)の登場人物がオーバーラップしてきて、

遺作の謎解きをしていくと、同時に作家の殺人事件の犯人も解き明かされる、

といった筋書きです。これをもっと複雑な形にしたのが、中井英夫氏の

『虚無への供物』です。ロシアの民芸品で、マトリョーシカ人形がありますが、

どんどん入れ籠のように小説が絡み合っていきます。

作中作で、実在の人物が登場人物として出てきて、

作中作では死んだはずの人間が、自分を殺した犯人が誰か、

作中作の謎解きを議論したり、といったストーリーが続きます。

作中作だと思って読んでいたら、いつの間にか、現実の話へ移行して、

逆に、現実の話だと思っていたら、作中作を誰かに読ませている、

という設定だったり、現実と小説の境目が分からなくなっていきます。

そもそも、「現実」というのも、所詮、小説の中であるので、

その「現実」の登場人物たちが、自分たちの存在までも、

小説の登場人物に過ぎないのではないか、と疑い出すという感じです。

私の拙い文章力ではとても伝えきれないので、

興味を持った方はぜひ読んでください。

推理小説は元来、「語り手」と「読み手」を強く意識して書かれています。

作中作は、小説の「語り手」の視点をどこに置くか、という根源的テーマにつながるので、

推理小説を書いている人なら誰でも、1度は扱ってみたいと思う手法なのです。

同じく、劇中劇で有名なのは『ベガーズ・オペラ』です。

ロンドンのある劇場を、乞食達(ベガーズ・貧民層)が1日だけ借りて、

風刺的なオペラ(ミュージカルに近い形ですが)を上演する、

という設定で、脚本家兼演出家が随所に登場することで、

劇中劇であることを意識させます。

また、俳優が上演の間や休憩時間に、観客と絡む場面が多く、

舞台上に設けられた観客席に座ったお客さんは、随所で劇に参加します。

『キャッツ』でも、俳優陣が観客席の近くを動き回っていましたが、

セリフや動きの中に、観客の存在を盛り込んでいる点で画期的です。

実際には、『ベガーズ・オペラ』の初演は1782年で、ミュージカルの元祖です。

このような凝ったミュージカルを18世紀に作ってしまうことからしても、

まさにロンドンはシェークスピアを生んだ街だと感じさせます。

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「常識」を変える

最初にお断りしておくと、私の日本史の見方は、その多くを

井沢元彦さんの考えに拠っています。ですので、偏っている面もあります。

ただ、発想法を語る上で、何が原因で何が結果なのか、を考える思考法はとても大事で、

歴史を学ぶことは、因果の流れを知ることにつながります。

井沢さんの思考は、1つの「物語」として日本史を捉えるものであり、

自分の中にすんなり入っていきます。

たとえば、「生類憐みの令」という悪名高きルールがあります。これは、江戸時代、

徳川綱吉が定めたものとされます。よく「悪法も法なり」の例として、

さらに、「罪刑の均衡」の考え方を知ってもらう例として、使ったことがあります。

井沢さんの説によれば、「生類憐みの令」は当時の「常識」を変えるための

劇薬的な法律であった、とされます。

徳川幕府が成立した後も、戦国時代の雰囲気が残っていて、

「人を殺せば誉められる」感覚が残っていたのを、「生類憐みの令」で

「犬一匹でも殺したら死刑、虫一匹でも殺したら島送り」という

厳罰主義を採用することによって、人々の感覚を劇的に変えようとした、

という評価です。

厳罰主義の好例としては、

シンガポールで路上にゴミをポイ捨てすると多額の罰金を取られる、

東南アジア諸国では麻薬所持が即決裁判で処刑される、

といったものがあり、現地で蔓延している悪事を取り締まるためには、

厳罰主義で臨む他ない、と言えます。

当時の江戸時代も、治安は悪く、また、人を大事にしない風潮であったようです。

これも井沢さんからの受け売りですが、「生類憐みの令」の中に

「宿で旅人が病人になった場合、追い出してはいけない」という項目があるそうです。

これは現代でも同じですが、ある行為を禁じるルールがある、ということは、

そういう行為をしている人が多い、ということを意味します。

危険運転致死傷の罪が刑法に新設されたのも、

飲酒状態で無謀な運転する人が多いからです。

「人を大事にする」発想がなければ、病気になった人は長期滞在になるけど、

治安が悪い中で故郷からお金を送ってもらうことは難しいので、

宿代を払ってもらえるか分からない、となれば、

追い出す方が経済効率には適っています。これが当時の「常識」であったわけです。

結局、「人を大事にせよ」と言ってもインパクトが少ないので、

犬・虫すべて大事にせよ、という極端な旗を掲げて振った、ということのようです。

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「は」と「が」

職業柄、文章を書いたり、読んだりすることが多く、

文章を読むと、それを書いた人の性格が何となく分かります。

私が注目するのは、句読点の打ち方、主語を意識的に置いているか、

そして、助詞の使い方、です。大野晋さんが『日本語練習帳』

で書かれていますが、「は」と「が」の用法の違いは重要です。

たとえば、「今日の昼飯、何にしよう?」と訊かれたとき、

「私はカレー」は意味が通りますが、「私がカレー」はちょっと変です。

逆に、病院とかで、「佐藤さん、いらっしゃいますか?」との呼びかけに、

「私が、佐藤です」と答える方が自然です。

「私は佐藤です」だと、単なる自己紹介になってしまいます。

つまり、「は」はその後に続く語句に重点があり、

前に付く言葉には特段の意味がない場合に使われます。

それに対し、「が」は前に付く言葉に重点があります。

「私が…」という文章は、「他の誰でもなく、まさに私が」というニュアンスなのです。

英語ではtheとa、さらに複数形の使い分けがNativeでも難しいそうですが、

「は」と「が」の違いも意識してみると、面白いものです。

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明治33年=1900年

最近、元号を使う機会が減っていて、明治や大正が西暦で何年なのか、

分からなくなってしまいますが、明治33年=1900年、というのは

比較的覚えやすいと思います。

もう何十年かすると、昭和20年=1945年、とかを基準にしないと

昭和と西暦との対応ができない世代が出てくることでしょう。

今でもお役所への提出書類はすべて元号で書くことになっていますが、

社内公用語を英語にする企業もある位ですから、元号が使われる機会は

どんどん減ってしまうことでしょう。

さて、「昔は多くの人が知っていたが、今は使われなくなったもの」として、

私が中学で習ったのは「変体仮名」です。

現在は、「あ」=「安」の漢字の形を崩したもの、

「い」=「以」の漢字の形を崩したもの、というように決められています。

しかし、江戸時代には、「い」と読むひらがなは複数ありました。

井・伊・意など「い」で変換して出てくる漢字の多くが、

それらに対応した崩し文字である「い」を持っていました。

しかし、これでは、ひらがなを覚えるのが大変だから、という理由で、

明治政府が統一したのが、今の平仮名です。

統一ルールから外れたものは、変体仮名と呼ばれています。

私が通っていた中学では、「雨月物語」などの江戸時代の御伽草子を

原文で読まされます。この過程で、変体仮名を学び、そこから逆算して、

漢字を学ぶ、といった教育を受けていました。

崩し文字から元の文字へ戻る、というのはまさに逆転の発想だと思います。

ちなみに、明治33年は、明治政府が平仮名への統一を行った年です。

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邪馬台国の秘密

まず最初に。高木彬光氏の「邪馬台国の秘密」のネタばれになっています。

最近、角川文庫で復刻版が出たようですので、

これから読もう、という方は、この記事はすっ飛ばしてください。

特に、入院していて暇な人は、神津恭介(名探偵)が入院しているときに、

アームチェア・ディテクティブをする、という筋書きなので、お薦めです。

さて、ここまで読んでいる方はネタばれOK、という前提で進めます。

日本史で謎とされる事件は多くあります。

「本能寺の変」の黒幕は誰か、坂本龍馬を殺したのは誰か、といったテーマは

誰しもが興味を持ったことがあると思います。

しかし、邪馬台国論争は、九州(福岡・大分近辺)vs関西(奈良近辺)

という対立構造であるせいか、地元では盛り上がるものの、

全国的な興味は引きにくいテーマです。TVドラマ「鹿男あをによし」

の背景には邪馬台国の話があるのですが、極力、

邪馬台国の話は出さないようにしよう、という意図を感じます。

邪馬台国が畿内にあったか、九州にあったか、という論争について

論理的な推理で1つの結論を導いた「論文」が「邪馬台国の秘密」です。

高木氏の独自性は、

①魏志倭人伝の記述を全面的に信用したこと

②九州での上陸地点を、地名の類似性ではなく、合理的な海路から推論したこと

③「余里」という語句は「誤差」を積極的に記したものと捉えたこと

の3つです。

特に、①は「推理小説」的な部分です。従来の邪馬台国論争は、

魏志倭人伝の記述内の矛盾を取り上げて、あまり信用性が高くない、

と言いつつ、自分にとって都合の良い部分は採用する、という手法が多く、

本格推理の読者にしてみれば、反則だ、と言いたくなるようなものでした。

「全ての材料は揃った。賢明な読者にとっては、真実は目の前であろう。

ここで謙虚に、読者への挑戦を宣言する。」といった古典的なやり方を

歴史に導入する場合には、資料を限定する必要があり、その意味で、

歴史家が高木氏の著作を大真面目に批判するのは、少し滑稽です。

最後に、③ですが、実は、中学の物理の時間で初めて学んだのが、

「誤差」の概念でした。市販されている五寸釘のようなものを配って、

長さを精密に測る器具で、長さを測り、数値をシートに記入していくのですが、

五寸釘1つ1つの長さが微妙に違うことは当然としても、

同じ五寸釘でも、測る人が違うと微妙に数値が変わってしまい、

また、同じ人が測っても、器具を変えると数値が変わり、

そもろも、座っている位置で(温度が違うせいか)数値が違う、

という感じで、一種のカルチャーショックを受けました。

魏志倭人伝の話で言えば、その当時は距離を測るのは、

人間が歩いて、その歩数で測っていたと考えられ、複数人で歩いたとしても、

どうしても誤差は生じます。神津恭介(高木氏)は、

魏志倭人伝の作者である陳寿は、几帳面で誠実な人物であるという前提で、

誤差が大きい場合には「余里」と付加したのだ、と推理しています。

「几帳面で誠実」だと誤差を意識する、という点が面白いと感じます。

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フレームワーク

東洋経済の3月8日号で、「地頭力」はこう鍛える、という

特集がされています。おそらく、ビル・ゲイツの面接試験、

という本がブームの発端であったと思いますが、

東大→キャリア官僚・弁護士、大学院→助手・講師といったルートの中では、

昔から「結局、地頭が良くないとね」と言われていた気がします。

最近は、国Ⅰやドクターよりも外資系企業が人気になったから、

その面接対策として「地頭」に注目されているのでしょう。

「地頭力」の例としては、日本全国にある電柱の本数は何本か、

という問題があります。この場合、全国を市街地と郊外に分け、

それぞれの単位面積当たりの電柱本数を予測し、

掛け合わせます。日本の総面積は約30万平方キロメートル、

市街地比率は0.2、郊外比率は0.8、

市街地の1平方キロメートル当たりの本数は400本、

郊外の1平方キロメートル当たりの本数は25本、ということで、

(30万×0.2×400)+(30万×0.8×25)=3000万本。

実際には約3300万本で、少ない情報から結論を想定する好例として

紹介されています。東洋経済では紹介されていませんでしたが、

1平方キロメートル当たりの本数の推定方法も大事だと思います。

市街地では50mごとに1本くらい電柱があるので、20×20=400本、

郊外では200mごとに1本くらい電柱があるので、5×5=25本、

という推定方法です。これは、理屈があるので覚えられます。

私が大事だと思うのは、日本の総面積と市街地・郊外比率の2つは

理屈抜きで丸暗記しなければならない、という点です。

日本全国を区分するときは、

東日本・西日本、47都道府県、という分け方ではなく、

市街地・郊外、という、まさに地域格差と呼ばれる区分が大事、

という事実こそ「フレームワーク」の好例だと思います。

応用問題で、全国の回転寿司屋で1年間に消費されるご飯の総量、

という問題もありますので、ぜひ、考えてみてください。

さて、導入部が長くなってしまいました。結論へ行きます。

地頭力の基礎は、要素に分解することであり、そして、

分解を的確に行うためには「フレームワーク」が必要です。

フレームワークは、全くのゼロから考えるものではなく、

多くの情報を取り扱う中で産まれてくるものです。

その意味で、読書・会話・検索からフレームワークが作られ、

フレームワークあってこそ検索が活きる、と言えます。

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棲み分けと共存

自然淘汰、という考え方は、

個人に対して、競争せよ、相手を負かせ、と促しているように感じます。

先日、NHKが「教育」をテーマとして、識者や現場の教員、中学生・高校生を

呼んで討論番組をしていましたが、その中で、識者が

「資源を持たない日本が、これからのグローバル社会で生き抜くためには

アメリカはもちろん、中国やインドの優秀な若者に勝たなければいけない。

そのために教育が大事で、ある種のエリート教育が必要」

といった主張をしていましたが、中学生・高校生の多くは

「不満」のプラカードを上げていました。

識者の考えの背景には、競争で勝ち抜かなければ滅亡してしまう、という

ダーウィン的な思想があると感じます。

今西理論は、優秀な「個」が生き残るのではなく、

「種」が存続するための手段として「個」が選抜されているにすぎず、

適正規模の個体数とすることで、他の種と棲み分けし、共存している、

という考え方です。非常にデフォルメしているので、不正確な部分もありますが、

現代社会の「格差」論に今西理論をあてはめると、

大人は、「競争で勝ち上がっていく=他を押しのける」考えを押しつけるが、

若者は、色々な「種」が1つの社会の中で共存していく仕組みを模索している、

と捉えることができます。

ただし、「引きこもり」擁護ではありません。「共存」という以上、他を意識しています。

あえて言えば、「外に開かれた」オンリーワン、といったところでしょうか。

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適者生存

鳥が空を飛ぶのは、餌を探すためであって、

自由なように見えても、厳しい生存競争の中にいるのだ、

という話を昨日、書きました。

生存競争、という言葉は、自然淘汰、適者生存、といった

ダーウィン進化論の考え方につながっていきます。

しかし、自然淘汰や適者生存といった概念を落ち着いて考えてみると、

環境に適合した形質を持ったモノは生き残る可能性が高い、

という当然のことを言っているに過ぎず、

キリンの首は長いけど、シマウマの首が長くないのは、

それぞれの生きている環境が違うから、という程度の理由しか言えない、

との批判ができます。

法律の分野では議論が同義反復になりがち(「悪いことはやめよう」とか)

なので、トートロジー(同義反復)の概念を勉強の初期段階で

理解してもらうことが大事で、そのため、この話をよく行います。

そもそも、ダーウィンは、マルサスの人口論を読んで、

個体差のある多くの生物が限りある資源をめぐって競い合った結果、

少数が生き残って、その少数が子孫を残し、

子孫がまた生存競争を繰り広げる、というイメージで進化論を発想した

と言われます。まさに、「個」の競争という西欧的思想です。

確かに、魚は大量の卵を産んで、その中でほんの一部が生き残ります。

しかし、これを進化論と絡めて説明するのは非常に危険だと感じます。

実は、日本では、東洋的思想で進化論を考える、

今西理論なるものがあるので、明日はその紹介をしてみたいと思います。

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およげ!たいやきくん

一時期、ナナロク世代と呼ばれた1976年。

ロッキード事件で田中角栄氏が逮捕された事件の他に、

重大事件と言えば、「およげ!たいやきくん」の大ヒットです。

最近、「昭和ブーム」の影響で、ギネスブックにも掲載され、

再ブームとなっています。サラリーマンの悲哀を歌った、とも

言われているようです。

あまり知らない方のために、ストーリー紹介をすると、

鉄板の上で焼かれている日常がイヤになって、店の主人と喧嘩して、

広い海へ逃げこんで、自由に泳ぐ、楽しい日々を送ったものの、

最後には釣り針に引っかかって、見知らぬおじさんに釣られて、

「鯛焼き」として食べられる、という筋書きです。

中学の英語の授業の時に、as free as a birdという語彙を習ったとき、

ビートルズに「Free as a Bird」という曲があることをコメントした上で、

先生が、「そうはいっても、実際の鳥は全然、自由じゃない」

「鳥が空を飛ぶのは、餌を探すためで、1日中飛び回って

やっと1日分の食事にありつける、という生活だ」

「他の動物も、だいたいは餌を求めて走り回るだけで1日が終わる」

「人間だって、5000年前はその日の食事のために走り回っていた」

とか急に言い出して、「お前らは、その日の食事の心配をしないで

勉強したり、居眠りしたり、麻雀したり、本当、自由だよな。そうだろ?」

「この自由を謳歌できるのは、人間だけだし、人間が『社会』を作って

いるからだ。多くの人が協力して、各自が自分の役割を持って、分業して、

社会を形作っているから、食事のために走り回る必要がないってこと、

絶対忘れるなよ。」という、英語とは全く関係ない話でしたが、

先生の指示通り、今でも覚えています。

本当に大事なことはメモを取らなくても覚えていられる、という一例です。

「たいやきくん」の話から脱線しているように思うかもしれませんが、

「社会」の中では「終わらない日常」が強固で、その中で多少、

自由を味わっているように見えても、実際には、

その人の役割は消えておらず、あるきっかけで、役割が復活して、

その役割を全うすることで、その人の人生は完結する、

という人生哲学を歌っているように感じてしまうのは、考え過ぎでしょうか。

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暗君と忠臣

一応、昨日からのつながりで、金星といえば「明けの明星」

森博嗣さんは、『すべてがFになる』の中で、

「別に金星が特別な惑星というわけではない。

地球よりも太陽に近い軌道をたまたま回っているのだから、

水星と金星は、いつも太陽の近くに見える。

明け方と夕方にしか現れないのは、それだけの理由だ。」

と述べています。

当たり前のことですが、「星は昼には見えず、夜になると見える」

ということです。このセリフ、実は仮名手本忠臣蔵の冒頭にあります。

曰く、国は平和で君主が立派な時には、忠義や武勇を発揮する必要がないし、

たとえ忠臣でなくても、信賞必罰があるから、しっかりと働く、ということです。

夜になると星が光るように、

国が乱れて君主がバカ殿である真っ暗闇だからこそ、忠臣は光り輝く、

というわけです。

こういう感覚は上の人が言うとダメですが、下にいる間は持ち続けたいものです。

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ボーデの法則

水星・金星・地球・火星・木星・土星・天王星の位置が、

ある数式で示すことができる、という法則です。

太陽から地球までの距離を1とすると、

太陽から水星までは0.4、太陽から金星までは0.7、

太陽から火星までは1.5、太陽から木星までは5.2、

太陽から土星までは9.5、太陽から天王星までは19.2、ということで、

これは、「0.4+0.3×2のn乗」で表すことができます。

確かに、n=0だと0.7になりますし、n=1は1で、n=2は1.6です。

ただ、n=3だと2.8になってしまい、一応、小惑星帯はありますが、

小惑星を全部集めても惑星としての質量には全然足りないみたいですし、

この辺りから、ちょっと法則は怪しくなります。

n=4は5.2なので、木星の位置にぴったり合いますが、

n=5は10、n=6は19.6なので、土星や天王星とは少しずれてしまいます。

ちなみに、n=-∞で、2のn乗=0となり、これが水星を示すそうです。

2のn乗が0になる場合がある、という方がかなり驚きですが、

この法則のすごいところは、n=1~6でn=3以外では

ほぼ同位置に惑星が観察されたので、

n=3の場所をよくよく観察してみたら、小惑星帯が見つかった、

という物語性にあると思います。

結局、海王星はn=7の位置には合わず、

冥王星の位置はまあまあ近似値であったものの、

冥王星は2006年に惑星の定義から外されてしまいました。

現在では、ボーデの法則は偶然、と見る説が一般的のようです。

科学の本質が、仮説→検証というストーリーにあることを示す好例

だと思い、紹介してみました。

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スイッチが入る

共犯者として逮捕されたはずなのに、

主犯よりも有名になってしまった方、といえば

佐藤優さん、です。

国家権力の存在を思い出させてくれる人、とも言えます。

佐藤さんが雑誌の連載で書いていましたが、

政治家は非常に多忙なので、スイッチのOn/Offを使い分けていて

Onの時は、「1を聞いて10を知る」という感じで、

官僚の説明に対して的確な突っ込みを入れてくるのに対し、

Offの時は、耳では聞いていても、実際には了解していないわけで、

全くの別人だそうです。

佐藤さん曰く、ダメな(というか、小賢しい)官僚は、Offだと分かっていて

一通りの説明をして、政治家が「俺は聞いていない」と言っても、

「何月何日に、こういう説明をしました」と口答えして、

アリバイ工作のようなことをしてしまう、と評しています。

当然、政治家は後で仕返しをするわけです。

同じ話は、政治家並みに多忙な人、たとえば、会社の社長にも

あてはまります。OnとOffの見分けはできるとして、

問題は、どうやって、聞き手をOnの状態へ持っていくか、です。

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笑点とカンガルー

これを書くと、世代が分かってしまうかもしれませんが、

今日読んだ新聞記事で、「笑点」の名前の由来を

初めて知りました。笑点は1966年に始まったのですが、

同年1月にTVドラマとして始まった「氷点」に対抗してつけた、

という由来にはかなり驚きました。

旭川で三浦綾子記念文学館を訪れたときに、

「氷点」が、普通の主婦が、朝日新聞の募集した

1000万円の懸賞小説に応募して書いたデビュー作であった

ということを知ったときにも驚きましたが、

氷点が人間の「原罪」を扱ったものであることを考えると、

あまりのギャップに、それこそ「座布団1枚」、という感じです。

さて、名前の由来、ということで思い出すのが、

「カンガルー」の名前の由来が俗説ばかりが信じられていて

本当の由来はあまり知られていない、という話です。

キャプテン・クックがオーストラリアを探検した際、

アボリジニの原住民に名前を尋ねたところ、

原住民の人はI don't knowという意味で「カンガルー」

と答えた、という話を英語の教科書で読んだことがある人も

いると思いますが、これは全くの嘘、だそうです。

本当は、「跳ぶもの」を意味する「gangurru」が由来だそうです。

私も高校生の頃までは、俗説の方を信じていました。

大学に入って、別の本で本当の方の話を知りました。

それ以来、俗説を信じてしまったのは、

原住民はバカで西欧人は優秀、という先入観があるせいだ、

と思い、自分への戒めとしています。

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明日を元旦と思えば

やっと、「HERO」のDVDが発売されました。

「あるべき」検察官像を描いたドラマで、

現実にはあり得ないと思いつつ、やはりヒーローものは燃えます。

あり得ないのは、1つの事件に専念できる、という点です。

さて、私の友人で、先日亡くなってしまった弁護士がいます。

もともと心臓に障害があって、

司法試験受験中にも緊急手術を受けたことがあります。

それでも試験勉強を続けて、見事、合格しました。

ただ、完治は難しかったようで、修習を終えて、

1日だけ弁護士事務所で働いて、翌日、急死してしまいました。

こういう場で書くべき内容ではないかもしれません。

ただ、先日、彼を偲ぶ会が行われ、そこで、修習所の教官が

「弁護士をずっと続けていると、どうしても気が抜けてしまうこともあって

信じられないようなミスをしたり、いい加減な仕事をしてしまったり、

ということもあります。

でも、1日だけ弁護士として働くことができた彼のことを思うと、

初心を忘れてはいけない、

彼のためにも、弁護士として立派な仕事をせねば、と思う」

と述べていました。

「今日を大晦日、明日を元旦と思えば、家庭は円満」といった

言葉が近所の教会に掲げられています。

ありきたりの話ではありますが、「どんなことにも真剣に取り組む」姿勢は

持ち続けたいものです。

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名は体を表すか

「自分のものなのに、他の人に使われることが多いものって何?」

というなぞなぞがあります。

話は変わりますが、『チーム・バチスタの栄光』で田口医師が

インタビューの最後に、その人の名前の由来を訊いていく場面が

あります。「自分の名はその人が一番耳にする言葉であり、

そういう特別な言葉に対し、その人がどのように向かい合っているかを

知ることは、生きる姿勢を知ることにもつながる。」

というのがその質問をする理由です。

これは多くの人が納得する理由だと思います。

そして、非常に「日本人」的な感覚です。

井沢元彦さんという歴史家は、日本史を読み解くキーワードとして、

「言霊」を挙げています。簡単に言えば、言葉と実体がシンクロする、

という考え方です。親は、子供の将来を夢見て名前を真剣に考えるし、

「悪魔ちゃん」とか付けられると世間が大騒ぎするわけです。

歴史カテゴリーの話では、井沢さんの説を多用することになりますが、

これも発想法につながるもの、ということでお付き合いください。

いつか私の名前の由来を説明する機会が来ることを祈りつつ…

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外部メモリーと検索

携帯電話の電話帳を開くたび、思ってしまうこと。

昔の人はどうやって電話番号を管理していたのだろう?

もちろん、手帳に書くなり、名刺ホルダーに入れるなり

していたのでしょう。

私の場合、大学に入った頃にPHSが普及していって

友人の電話番号は携帯のメモリーに入っているものが

ほとんどです。仕事関係も同様です。

携帯を壊してしまって、二度と連絡先が分からなくなる

という話がありますが、外部メモリーに依存する恐さです。

外部メモリーを使うことで、人が扱う情報の量は格段に

増えました。問題は、ごちゃ混ぜになった情報から、

いかにして自分が必要とする情報を得るか、です。

ここで「検索」が問題となります。

電話番号であれば、名前の50音順でインデックスを

つけることが一般的でしょう。ただ、村によっては、

ほとんど全員、佐藤さん、という場所もあるでしょうから、

その場合はグループ機能が必要になります。

あと、韓国とかロシア・東欧は名字の種類が少ないので、

最初からグループで電話帳を作っているかもしれません。

携帯の電話帳は名前とグループの2つで簡単に整理できますが、

PC内のデータともなると、文書名の付け方を工夫しないと、

あとで検索する時に大変です。

特に、他人が作ったデータは、文書名の付け方がバラバラで、

全文検索しないと必要なデータが見つからない、という事態もあります。

我が社では、制作物について文書名の付け方を統一化する

ルールを定めています。とはいえ、名前の付け方には個性が出ます。

会社で働いている人は、同僚や部下のPC内データがどのような名称、

フォルダ構成で整理されているかを見せてもらうと、新しい発見・ひらめき

が産まれるかもしれません。

統一感を求め過ぎるとISBNやISSNのように無味乾燥になってしまいます。

デジタルの分野でも適度に自由度を残しておく余裕が大事だと感じます。

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英語の勉強法

脳科学を真面目に研究している方からは

笑われるかもしれませんが、私は英語

を学習する際、何度も繰り返して、脳内の

ニューロンに記憶を刷り込んでいきます。

反復することで、ニューロンに一定の電気信号が

通りやすくなって、記憶になる、という発想です。

「どんどん忘れる」「覚えよう、というより忘れよう」

という発想です。

たとえば、1500もの英単語を覚える場合、

1日5つしか覚えなかったら

全部覚えるまでに1年かかります。

1年経ったところで、最初に「覚えた」はずの

単語はすっかり忘れているでしょう。

そうでなく、1分に5つ覚え、瞬間的に忘れて、

次の1分でまた別の5つを覚えるのです。

こうすれば、300分=5時間で1500もの英単語を

「忘れる」ことができます。

毎日、忘れ続ければ、頭の中に、1500の英単語の

記憶ルートができるはずです。

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