ミステリー

犀川先生ゲーム

昨日の記事で紹介した「議論の余地しかない」。

これを読んでいると、私なんぞはミステリーを書きたくなるのですが、

あまり深く考えず、それぞれの言葉で30秒ほど考える位なら、

適度な頭の体操プラス気分転換になると思います。

「完全犯罪」の定義はいろいろありますが、ある小説では、

「迷宮入り事件」の間逆、つまり「一度、警察なり探偵なりが解決した事件」

が取り上げられています。謎のままだと、挑戦する人が登場するが、

まあまあ納得できる解答を教えられてしまうと、それ以上は考えない、ということです。

森さんの言葉から引用すると、「真実とは、放った矢が、的の中心にどれだけ

近く当たったか、である。どの的を狙って放たれたかには関わりなく。」

この言葉の行間を30秒~1分考え込んでいるとミステリーを書きたくなります。

さて、気分転換になる方の言葉を紹介しましょう。

「正しい情報なんて、もう残っていないだろう。

正しい情報ほど、早く消え去るものだ。」

このように、印象深い言葉が出てくるのが森博嗣さんの本ですが、

大学時代に友人とやっていたのは、森さんの本で出てくるセリフに近い、

ちょっと意味ありげな応答ができるか、を競い合う「犀川先生ゲーム」です。

例えば、「偶然の半分は人間の努力の賜」という言葉があったときに、

「残り半分は…」の「…」に何を入れれば一番しっくり来るか、を考えたりします。

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魔術師→手品師

昨日の記事からの関連で、日本のミステリ小説で、

手品師が登場するものを紹介しましょう。泡坂妻夫氏の著作は、

自身が手品師でもあるため、手品に関係するものが多いです。

また、森博嗣さんの「幻惑の死と使途」は本来はシリーズものの6作目

ですが、S&Mシリーズの後半5作から読み始めた人、というのは、

リンカーン・ライムを映画から入るようなもので、変則的ですが、

その分、味のある読み方だと思います。

もし、森さんの本を1冊も読んだことがないなら、「幻惑の死と使途」から

「有限と微小のパン」(THE PERFECT OUTSIDER)までを読み、

その後、「すべてがFになる」(THE PERFECT INSIDER)に戻り、

前半5作を読む、という順序をしてみて欲しいです。

シリーズものは、いったん読んでしまうと、別の順序で読んだらどうなるか、

という思考実験がなかなか難しいものです。私の場合、

「ドルリー・レーン」シリーズも、「Zの悲劇」を最初に読んで、

次に、「Xの悲劇」「最後の事件」と読んで、なぜか、

一番有名な「Yの悲劇」は大学生になってから読んだ、という変則読者です。

かなりミステリーマニア的な話になってきましたが、今日の記事を書いていて、

「微小のパン」と「微少のパン」は何が違うのか、小学生に説明できるのだろうか、

という疑問が沸きました。

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リンカーン・ライム

最新刊は「ウォッチ・メイカー」。

映画化されたものは「ボーン・コレクター」。

私のお気に入りは「魔術師」。

このシリーズに映画から入った人は、黒人のライムが

自身の置かれた厳しい状況を受け入れ、前向きに活きていく、

「差別」を克服する、というテーマ性を感じます。それに対し、

順当に小説から入った人は、鑑識のスペシャリスト、というイメージから

天才肌の白人をイメージするようです。純粋に、犯人とライムとの競争、

という視点で読むことができます。

「ウォッチ・メイカー」は推理ゲームの側面が強く、

「魔術師」は差別克服のテーマ性が強いので、

映画から入ってしまった私としては「魔術師」の方がお気に入りです。

長編を読む時間がない方には短編集の「クリスマス・プレゼント」を

お薦めします。文春文庫です。

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論理的と確率

「9マイルは遠すぎる」という有名な短編ミステリがあります。

ちょっと面白いのは「9マイルは遠すぎる」で検索すると521件なのに、

「9マイルでは遠すぎる」は5080件もヒットします。

でも、ハヤカワ文庫から出版されている和訳のタイトルは

「9マイルは遠すぎる」です。日本語の語感としては、

「遠すぎる」という否定的な言葉の前には、単に「は」を使うのではなく、

9マイルも、という強調のために「では」と使う方がしっくり来ます。

ここら辺は日本語ネイティブでないと理解しにくいと思いますが。

さて、この小説は「9マイルは遠すぎる。雨の中ならなおさらだ」という

会話を耳にした探偵がそこから推論を働かせ、証拠無しで、

頭の中の推論のみで、事件の真相にたどり着く、という

「安楽椅子」探偵の典型です。

ただ、森博嗣氏曰く、これを「論理的」というより「妄想的」で、

推理小説では「非行動的」=「論理的」と言っているだけ、と手厳しいです。

確かに、森氏が指摘するように、80%程度の確率で「確からしい」推論を

10回続けると、0.8の10乗で、最終的な結論の確からしさは10%程度です。

しかし、途中の推論はすっ飛ばして、最初のきっかけと最終的な結論を

結びつけて、80%位は正しいのでは、と思ってしまうのが人間だと思います。

だから、「妄想的」かもしれませんが「人間的」な小説としてお薦めです。

先日、紹介したCO2排出量削減の活動も「妄想的」で「人間的」だと思います。

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作中作、劇中劇

ミステリーの技巧の1つに、作中作を盛り込む、という手法があります。

例えば、推理小説作家が殺人の被害者となって、その遺作が発見された、

という設定で、遺作の方も紹介されつつ、遺作の登場人物の設定と、

現実(といっても、小説内ですが)の登場人物がオーバーラップしてきて、

遺作の謎解きをしていくと、同時に作家の殺人事件の犯人も解き明かされる、

といった筋書きです。これをもっと複雑な形にしたのが、中井英夫氏の

『虚無への供物』です。ロシアの民芸品で、マトリョーシカ人形がありますが、

どんどん入れ籠のように小説が絡み合っていきます。

作中作で、実在の人物が登場人物として出てきて、

作中作では死んだはずの人間が、自分を殺した犯人が誰か、

作中作の謎解きを議論したり、といったストーリーが続きます。

作中作だと思って読んでいたら、いつの間にか、現実の話へ移行して、

逆に、現実の話だと思っていたら、作中作を誰かに読ませている、

という設定だったり、現実と小説の境目が分からなくなっていきます。

そもそも、「現実」というのも、所詮、小説の中であるので、

その「現実」の登場人物たちが、自分たちの存在までも、

小説の登場人物に過ぎないのではないか、と疑い出すという感じです。

私の拙い文章力ではとても伝えきれないので、

興味を持った方はぜひ読んでください。

推理小説は元来、「語り手」と「読み手」を強く意識して書かれています。

作中作は、小説の「語り手」の視点をどこに置くか、という根源的テーマにつながるので、

推理小説を書いている人なら誰でも、1度は扱ってみたいと思う手法なのです。

同じく、劇中劇で有名なのは『ベガーズ・オペラ』です。

ロンドンのある劇場を、乞食達(ベガーズ・貧民層)が1日だけ借りて、

風刺的なオペラ(ミュージカルに近い形ですが)を上演する、

という設定で、脚本家兼演出家が随所に登場することで、

劇中劇であることを意識させます。

また、俳優が上演の間や休憩時間に、観客と絡む場面が多く、

舞台上に設けられた観客席に座ったお客さんは、随所で劇に参加します。

『キャッツ』でも、俳優陣が観客席の近くを動き回っていましたが、

セリフや動きの中に、観客の存在を盛り込んでいる点で画期的です。

実際には、『ベガーズ・オペラ』の初演は1782年で、ミュージカルの元祖です。

このような凝ったミュージカルを18世紀に作ってしまうことからしても、

まさにロンドンはシェークスピアを生んだ街だと感じさせます。

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